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満州孫呉 森彦昭様

 投稿者:AI  投稿日:2013年10月16日(水)12時10分48秒
   この音楽掲示板の縁で孫呉の方と繋がりができたことを仁田先生始め皆様に感謝いたします。
 何年も前から「孫呉」で検索しましたが3日ほど前にこの掲示板がヒット致しました。
 いろいろ話したいことがございますので直接メイルにてご連絡差し上げます。

AI
 
 

満州 孫呉

 投稿者:森 彦昭  投稿日:2013年10月16日(水)10時29分57秒
  AI 様

こんにちは!孫呉生まれの方とは!今まで72年の人生で初めてですね。茨城県の遺族会にはいませんし2000年の慰霊巡拝の旅でも孫呉には行けませんでした。昭和18年といえば撫順の日本人避難民収容所で死んだ妹と同年代と思います。いろいろ情報交換もさせて頂きたいと思いますが、この掲示板は小生が合唱団で歌っている「牛久フロイデ混声合唱団」の指揮をされている仁田悦朗先生の音楽雑談室という掲示板なので小生の次のEメールアドレスにメールをいただけば幸いです。宜しくお願いします。

 メールアドレス: laforesta@jcom.home.ne.jp
 

爺河童、森彦昭様

 投稿者:AI  投稿日:2013年10月14日(月)21時40分35秒
   音楽には関係ない者ですが、「満州」で検索しましたらお二人が満州孫呉関係者と知り投稿させていただきました。
 私は昭和18年6月「孫呉」生まれです。
 いままで孫呉生まれの方はお二人しかお会いしたことがありません。
 いろいろと情報を交換したいので差し支え有りませんでしたらご連絡下さい。
 この掲示板の投稿は初めてなので連絡の取り方などは分かりませんので方法もお教え願います。
 東京在住
 

書き込みを拝見して

 投稿者:仁田  投稿日:2013年 9月27日(金)22時32分18秒
  皆さんの書かれた記事を見て改めて強く思うのは、戦争の愚かしさとその愚かしい戦争に翻弄され筆舌に尽くしがたい辛さを強いられた国民のご苦労のことです。戦後生まれで(体験をしていないという意味で)本当の辛さや痛みを知らないとは言え、戦後民主主義の恩恵をたっぷりと受け、ぬくぬくと育ってきた私たちの世代は「多くの人の犠牲のおかげで平和に生きていられるのだ」と強く教えられ、平和憲法のありがたさを強く感じている世代です。日立で艦砲射撃にあった母、戦地から帰らなかったという若い叔父、風船爆弾をつくって飛ばしたという五浦の古老、シベリアに抑留された方の話などを聞くにつけ、戦争を体験していないから余計に、戦争の怖ろしさやおぞましさを想像し、平和が何よりも大切でかけがえのないものだと痛切に感じたものでした。
命からがら(しかも弟さんや妹さんなどの肉親と離ればなれになったり亡くされたりしながら)大陸から逃れてこられた痛ましい体験をお持ちの皆さんの想像を絶するばかりの大変さを思うと言葉もありません。
戦争をすることが出来ない国であることをもっと誇りに思って、そのことを大切にしなければならないはずなのですが、憲法9条を解釈し直して集団的自衛権の行使を明記する方向に舵をきろうとしてする動きがあるようです。どんどん拡大解釈してついには「戦争もやむなし」などということになれば、あの戦争と被爆、敗戦の経験から何も学ばなかったということになってしまうでしょう。敗戦から70年も経たないうちに、またも国民の多くを悲惨で過酷な運命に追い込むということは、許されて良いはずはないのですが、平和ぼけしてしまったのでしょうか、それを容認したり(難しいことは国に任せておけばよいというかのような)楽観的な気分になっている人も多いように見受けられます。最も犠牲を強いられるのは他ならない国民自身であるはずなのですが・・・。
どうしたことかと目の前が暗くなる思いでいます。
本当は、この70年近い歳月をいたずらに過ごすことなく、平和と人権について子どもたちに
しっかりと教え伝えてくるべきだったと悔やまれてなりません。
 

内地の子供達は

 投稿者:rosemary  投稿日:2013年 9月27日(金)19時25分28秒
  森さんのお話を読ませて頂き、筆舌に尽くしがたい体験をされたこと、戦争はいつも弱い者に大きな犠牲を強いるものだと、改めて思いました。
内地では、戦争が苛烈になってきた頃、国策で学童は疎開を、と言うことになり、私は、母が教職を離れる訳にはいかなかったので、集団疎開をすることになりました。まだ幼くて、遠足気分で上野駅を発ちましたが、日を追ってホームシックにかかり、みんなで大泣きしたものです。
そのうち淋しさに慣れて来ると、空腹を初め、不便、物不足、厳しい管理、先生や寮母に甘えられない、親へ出す手紙は検閲されるなどなど、グッと我慢するしかありませんでしたが、その欲求不満は、より弱い仲間へのいじめ、と言う形で発散するようになりました。私も多分友達を傷つけていたと思います。
さながらミニ軍隊、と言ったら大袈裟かも知れませんが、当時の自分達を思うと、愛おしくて抱きしめてやりたい気持になります。
はからずも疎開先は土浦でした。でも予科練が近くて危険なので、群馬の山寺に再疎開しましたが、食糧事情は更に厳しくなり、農家のお手伝いをしては夕ご飯とお風呂を頂いていました。
食べられる野草は摘み尽くし、栄養状態、衛生状態が最悪の私達にノミ・シラミの総攻撃です。そのうち東京最後の大空襲で私の家も焼失し、山形の親戚に身を寄せた親が迎えに来てくれた時は、羨ましそうにしている友達のことより、親元に帰れる嬉しさに舞い上がっていたことを、後からちょっと後悔しました。
学区域が山の手だったので、親を亡くした子供は殆どいなかったのが救いでしたが、下町では3月10日の大空襲で多くの子供達が孤児となり、戦後もずっと長く苦労をしたはずです。
二度とこんなことがあってはいけません。
高木敏子著「ガラスのうさぎ」、野坂昭如著「火垂るの墓」は、空襲で親を失った子供が、胸をえぐられるようなすさまじい体験をしていった話です。これらのDVDを見る度に涙を抑えることが出来ません。

あれから半世紀以上経った今、これからどんな時代になるのか、一抹の不安を抱えながらも、音楽を楽しむことができる幸せをかみしめています。互いの声を聴き合うコーラスは、平和のシンボルかも… と格好をつけて言ってみたくなりました。

駄文、すみませんm(_ _)m
 

満州 奇跡の脱出

 投稿者:森 彦昭  投稿日:2013年 9月26日(木)11時22分58秒
   小生の投稿に仁田先生と爺河童さんからコメントあり感謝申し上げます。

 小生が、当時、黒龍江省孫呉市の満鉄の社宅から母25歳、小生5歳にもっともっと幼い弟と妹が日本人避難民として逃げ出したのが昭和20年の5月後半でした。5月前半に親父は根こそぎ動員で現地招集で孫呉の関東軍の要塞に出向いたはずです。小生は母にだかれて小さな日本の国旗を振って見送ったかすかな記憶があります。

 それからが永く苦難を強いられる地獄の始まりで南の大連を目指して途中でなんども死にかけて撫順という町にたどりついたのが昭和21年の冬でした。日本人収容所に集団で何とか地獄の寒さから生きようと母は必死だったといいます。しかし、食べるもの飲むものに不足した生活に小生よりは幼い妹と弟の命はもたずにあいついで死に大きな穴に埋められて今やどこにあるのかもわからない所で永眠しています。
 母のショックは大きくその後なんども小生に青酸カリを飲ませて自分も死のうと親子心中をやろうとしたと生前母から聞きました。しかし、そのたびに小生は抵抗して絶対に口をひらかなかったと、親子心中をなんとかあきらめたそうです。
 また、満人から小生を売りなさいという話も避難民となっていた逃げていた間になんども何度もあったそうです。そして乞食同然の姿で母と小生が大連にたどりついたのが、推定ですが4月頃で、コロ島から舞鶴向けの船が日本人の避難民のために用意されているとわかったのです。
 母と小生の奇跡の脱出は昭和21年の6月28日舞鶴上陸で終わりましたが、一年余の逃避行中に母の手をはなし迷子になったり歩く力もなければ小生は弟や妹とと共に満州の土になったと思っています。しかし、今、命があって「フロイデ」で歌ったりできるのは、コロ島から舞鶴への米軍の船があったからなのですね。船がなければ大連で親子心中か病死の人生だったと思います。

 「満州 奇跡の脱出」の著者「ポールさん」との手紙のやりとりでポールさんは母が25歳~26歳の若さにもかかわらずに沈着冷静にはるか遠い黒龍江省の孫呉市からの避難を勇敢になしとげたからこそと言ってくれた言葉もジンと胸にくるものがありました。

 尚、満州脱出の苦労に対して福田元首相(二代目)から日本政府を代表してお詫びの手紙を戴いたのは平成になってからでした。一方、根こそぎ動員で現地招集の親父は、戦後の10月に中共軍の銃弾で部下の4名と共に戦死となり吉林市の土になっていますが、2000年8月にその近くまで慰霊巡拝で7名の遺児と共に訪ねましたが、遺骨収集等は許されず、日頃、泣くことなどなく育った小生なのに号泣したものでした。親父の悲惨な最後も当時親父の当番兵だった方がガリ版印刷で書いた「森小隊長の最後」という報告書が残っています。更に、捕虜になった軍曹の一人が「留用」と称して中共軍に朝鮮戦争まで利用され書き残された自分史を頂いております。小生も語り継ぐことが必要な時期にきたと思っています。

 楽しかるべき音楽雑談にそぐわない投稿お許し下さい。
 

Escape from Manchuri

 投稿者:爺河童  投稿日:2013年 9月25日(水)20時15分51秒
  敗戦直後の日本政府の無策の露呈の一端です。中国大陸に残された邦人は、日本政府からは棄民扱いにされ、日本帰国などは考えてもいませんでした。
満州国崩壊後、中国には大勢の日本人居留民が取り残された。当初はソ連軍の侵攻後も、大連港で引き揚げが行われたが、のちに港の使用を禁止され、アメリカの仲介により、中国国民党が支配していた遼寧省の錦州の南西にある葫芦島(コロ島)港が選ばれることとなりました。
中国国民党は、日本人難民のうち満州にいた105万1047人を1946年5月7日から国共内戦が激化する1948年8月まで、葫芦島港から引揚船に乗せて博多港などへ送還させた。中には、ソ満国境から2,000キロも逃げて来た人もいた。日本人難民が主戦場を通過し終わるまで国民党軍と共産党軍(八路軍)の戦いが一時中断するなど、葫芦島においては、虐待に至るケースまで無くほぼ正当に扱われた。と言うのは聊か体制よりの見解と思われます。真意は、敗戦国日本を占領した米国が、満州に取り残された邦人が共産化するのを、恐れたことにあります。戦前の米国は戦後も占領国の「共産化」を徹底的に排除する戦略にありました。
それにしても、日本政府の無為無策は今の時代に伝わっています。

 

読むのが楽しみです

 投稿者:仁田  投稿日:2013年 9月24日(火)20時53分16秒
編集済
  森さんから教えていただいた「満州 奇跡の脱出」は、なにやら外交官の杉原千畝がナチスドイツから逃れようとしたユダヤの人々に独自の判断でビザを発給し、6000人もの人々を救った話を彷彿とさせるではありませんか。「日本のシンドラー」と呼ばれ、映画にもなった話です。
良い情報を教えていただき、ありがとうございました。
読んでみたい欲求にかられ、早速7ネットショッピングで注文してしまいました。
未だ入手できてはいないのですが、近日中に届くはずです。
早く手に取りたいという思いでいるところです。こうした高い志をもった日本人の行動を
思うと、日本人は本来利己的なありかたを恥とする高邁な精神をもった人々の集まりであったはずのなのに、と歯がゆい思いもするこの頃です。
 

気象用語の矛盾

 投稿者:爺河童  投稿日:2013年 9月23日(月)23時59分11秒
  森さんの「スーパーセルと口笛」、「満州、奇跡の脱出」、を興味深く読ませて頂きました。一週間前に京都嵐山、福知山を強襲した18号の爪あとがまだ癒えない中、東上を諦めた、19号は進路を西にとり、台湾を掠め、香港に豪雨をもたらし、中国南部の広東省に上陸、数十人の犠牲者を出しました。息つく間もなく、台風20号が発生し、発達しながら本土に向かって接近中と報じられています。全国各地では稲刈りの最盛期を迎えようとしています。果物、農作物に影響が出ないように祈るのみです。
地球温暖化が原因でしょうか。このところ、異常気象による被害報道が世界の隅々から寄せられています。豪雨、洪水、冠水、土砂崩れ、山火事、旱魃、水不足、竜巻、ハリケーン、サイクロン、台風、等々。地球を破壊し続ける人間社会に対する自然界の逆襲でしょうか。ところで気象庁が発する気象用語の多くに、非科学的で首を傾げる表現が散見されます。台風や竜巻は気体の集合体ですが、呼称を「○○個」と言っています。昨年本土二上陸した台風は○○個、とか今年はもう既に18個の台風が来たとか言っています。「個」ではなく「回」か「度」ではないでしょうか。 そして、雨量はミリ、積雪はセンチ、風速はメートルと言って、どこの局でもメディアでも、正確な単位を当然のように省略しています。ミリメートル、センチメートル、メートルはいずれも二次元の長さの単位であって、体積、容積、速度をさすものではないはずです。子供の学力が落ちたなどと嘆く前に、気象庁やメディアは、雨量計、積雪計、風速計などの実物モデルを示して、便宜上、雨量はミリ、積雪はセンチ、風速はメートルと呼んでいるが、実際は、単位時間内に単位面積に溜まる「質量」からミリ、センチを、風速は、単位時間内の風速計の回転数からメートルを、このような計算式から割り出しているとの解説が必要ではないでしょうか。例えば、最大瞬間風速60メートルの風が吹いたと、アナウンサーが叫べば、その強さは、激しさは感覚的には分かりますが、少なくとも、毎秒60メートルとか秒速60メートル、あるいは60メートル/秒と言って欲しいものです。

私も両親に連れられて、昭和21年7月に「コロ島」から「舞鶴」に奇跡の帰還を果たした一人です。

 

また起きてしまいました

 投稿者:仁田  投稿日:2013年 9月16日(月)22時37分9秒
   森さんが書き込んで下さったスーパーセルが引き起こす竜巻の話題。そう頻繁に起きてしまうような“ふだんの自然現象”ではなかった、いわば“特異な現象”であったはずなのに、このところ頻繁に起きるようになってしまい、私たちを取り巻く環境が急速に変化していることを痛感させられます。
この三連休に日本を襲った台風18号も、各地で突風による被害を相次いでもたらし、竜巻と正式に認められていないものもあるにしても“どうやら竜巻ではないか”と思われる被害が和歌山、埼玉、群馬、そして宮城で起きてしまいました。
「経験したことのないような大雨」だけでなく、突然の強風も「いつどこで起きても」不思議ではない身近な現象になってしまったかのようです。
 人間のおごりに対して自然が猛省を促しているのではないか、とさえ思えるような急速な環境の変化に手をこまねいているばかりではいけないのでしょう。海水温の上昇にしても、オゾン層の減少にしても、大気の汚染にしても、温室効果ガスの増加にしても、すべて人間がもたらしたこと。それらを解消する手段や手立ても責任も人間が持っているはず。自国の利益だけに固執していては、ついには人間の生存すら危うくなることは目に見えているはず
なのに、いっこうに進まない環境対策になんたることか、と思わざるを得ません。
 

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